Why do I take photographs?

FH000027
4月 17th, 2014
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以前にも少し写真を撮ることは禅問答のようなものだと書いたが、写真を撮る「理由」について時々考えたくなる。
僕は写真が好きだ。撮るのも好きだし、撮ったものを眺めるのも好きだ。そして美しい写真とそれについて語る人々を見るのが好きだ。でもやっぱり、自分がとった写真を見ている時が一番幸せだ。
それを愛と語るのは簡単だ。愛は喜びであり、哀しみであり、時に憎しみでもあり、またある日には虚無であり、満ち足りた孤独でもある。それを愛と一言で語るのは簡単だ。

「写真は――面白いものだ。見たものが見えたように映るかとおもいきや、時々予想もしない写りになっている。こうだと思って撮ったつもりが、まるで逆のようにみえることもあるし、その逆もある。かとおもえば自分が見たものをそのまま写し取れたように思うこともある……できあがってみてこれだ、と思うことはあまりないものだ。人と比べるとますます不可思議になる。同じ物をとっているはずなのに、まるで違う。写真の説明をするとこれまた意見が相違するし、説明を受けるとはぁ、なるほどとなることがしばしばだ。実に奥が深い」
(中略)
「思うに――写真というやつは、第三の眼なのかもしれない。だからひとによって映るものが違うのだろう。誰しも見ているものは違うからね。しかも、人は見えるものしか見ない。写真も同じだ。自分の見えているものだけが撮れる。物事をしっかりと捉えない愚図のとった写真は、やはり間が抜けている。しっかりと目を見開きあたりに気を配っている人物であれば、細々と恐ろしいほど詳細に景色をうつしとることができる。しかも時折この目は主人を裏切って、なにも見ていやしないことを教えてくれさえする。なんでも見えている気になるなよと言わんばかりに……いや、実に奥が深い」

写真を撮る、あるいは目に見たものを残そうとするその行為は、自分自身との会話に等しいと僕は思っている。その写真を見ればその時に考えていたこと、聞こえていた音あるいは耳をかすめた風の温度さえなまなましく思い出すことができるだろう。その時の自分は確かにその写真の中から僕を見返している。興奮し、あるいは冷静になって、僕は再びその景色の中に立ち、自分自身を再体験する。それが自分自身との対話でなくてなんなのだ。

人の写真を見るのも同じことだ。それは言語を介さない会話だ。ひどく不自由で、また同時に再現のない自由度を有している会話だ。だから僕は興味深く思うこともある。拒絶をすることもある。なにも感じないこともあれば、疲れてしまうこともある。

それを愛と呼ぶのは簡単だ。だからこそ敢えて「それ」をなにでもないままとどめておくことが大事なのかもしれない。

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