異国で生活をするのは、見知らぬソースコードを読むのに似ている、と思った。言葉はもちろんだ。しかしこの道がどこへ続き、どこへはいけないのか、話し方、声の調子、ゴミの捨て方、ファーストフードでの注文の仕方、支払い方法、食べ終わったあとの片付け方、切符の買い方、電車やバスの乗り方、空気、スーパーにおいてある品物、置いていない品物、コンビニの場所、買い物の仕方、貨幣、物価、横断歩道の渡り方、右折または左折の車の避け方、自転車、昼休みの過ごし方、ありとあらゆる些細な出来事に僕はつまづき、そのたびにどうするのだろうと周りを伺う。その行為はまるで見知らぬソースコードを読んでいる時のようだ。注意深く観察し、小さく動かし、限定された範囲での動きを理解し、その範囲を少し広げ、期待とは異なる動作に驚き、また観察をする。その繰り返し。
たぶん僕はまだ誤解をしているだろう。思い込んだ間違ったやりかたを正しいと信じているはずだ。それでも彼我の摩擦が可能な限り少なければ、僕達はストレスを感じない。適応した、理解していると勘違いする。その大いなる勘違いは危険だが、心地よい。コミットメントは快い。