秋葉原はとかく人の多い街である。そしてカメラを持っている人が多い。とにかく多い。だが写真を撮っている人は実はそれほど多くない。たぶんごちゃごちゃしすぎている割に妙に空間が間延びしているところがあるので、被写体にしにくいのだろう。それに最近は肖像権についてうるさいし、どうも人混みにはカメラを向けづらい。
それに――僕は時々思うのだ。カメラを向けて、景色を切り取るというその行為は、偏見や勘違いを助長させる行為なのではないか、と。秋葉原ほど内外に過大評価されている街はないと思う。かつてのこの街がどんな風景だったか僕もはっきりと覚えているわけではない。でも僕は落書きだらけのバスケットコートを知っているし、それが掘り返されていくさまも見ていたし、じりじりと背を伸ばしていったガラス張りのビルも知っている。もうなくなってしまった喫茶店にいた年配のウェイターや、高架下で長い蛍光灯を片手にダースベーダのテーマソングを歌っていたおじさんの店も消えた。東京の街は変化が早い。五年も経つと知らない街になってしまう。いや、ぼくの知っていた街だって、ある偏見に基づいたある一面でしかなかったのかもしれない。とにかくそんなふうにその姿を見定めることは困難を極めるし、わからないまま景色を切り取っていくというのはやはり、毒になりこそすれ薬にはならないのだと時々僕は思うのだった。でも、それでも、今日も僕は景色を――ある偏見を切り取っていく。その偏見もいつか消え去ると、僕は知っているからだ。